1963年(S.38)城先生の赴任とともに始まった四中工サッカー部の歴史。それはまずグラウンドつくりからはじまった。まだグラウンドの真中には川が流れており、練習も満足な事も出来なかった。中学から部活経験者も少なく、高校から始める生徒集団が城先生の指導の元、その後”打倒上野”を目標にだんだん力をつけていくのである。

年度 主な出来事 内容 3年生
1963 サッカー部誕生 初の公式戦は春季大会で三重高校と対戦2:6で敗退練習試合は中学校相手でもいい勝負だった始めてのユニフォームは薄いクリーム色で襟付きV首で紐で縛るモダンなデザインだった。初めての合宿も学校格技室で行い各自毛布持参で集合した なし
1964 全学年揃い
チーム力アップ
新入生を迎え部員数は当初50数名になり、またその大半が経験者でチーム力は大幅にアップした。が
まだまだ上野勢相手では勝つ事が出来なかった。二着目のユニフォームも出来た。色はグリーンに黄色のラインでV首のところがYの小文字になっている(四日市のYの意味)
藤崎、田辺、坂倉
斉藤、長井
1965 県大会ベスト4 県総体で初のベスト4になる。準決勝で敗れたものの強豪上野工校を相手に延長戦までもつれこみ、互角の勝負を展開した。結果は0−1
チームからは松崎(3年FB)と木村(2年GK)が三重県ユース代表に選ばれ、東海地区ユース選考会に参加。岐阜と対戦したが東海地区代表権は得られなかった
飯田、後藤、小林
土井、松岡、松崎
水谷邦雄、山本
水谷幸雄、
1966 県大会準決勝で抽選負け 部員数が少なく、公式戦もぎりぎり11名で出場し苦しい毎日だった。しかし走り込みを主とし、体力面を強化して、まだ県内ではあるが優勝を意識するところまでは力をつけてきていた。おりしも日本ではサッカーマガジンが創刊され、サッカーブームでテレビ青春ドラマ”これが青春だ”が放映されたりした。そんななか、サッカー部は千代崎海岸などでナンパ?に精を出していた。?! 木村、鈴木、佐藤
野呂、平谷
1967 二年連続抽選負け 5年目を迎えシード校となり、上位に入賞するチームとなっていった。
更なる飛躍を求め初めて県外に遠征に出かけた。相手は岐阜の
大垣工業で、試合結果は1:2で惜敗したが大きな自信をつけた。
しかし、インターハイ予選、選手権予選でも準決勝で上野工校と
対戦し、0−1、0−0(抽選負け)で惜敗し悲願の決勝進出は
ならなかった。伊藤(3年)、長沢(2年)の両名が名古屋で行われた
クラマ−氏の高校生を対象にした指導会に出席しコーチを受けた
荒木、石垣、伊藤
八木、古川、舘
田村、森口
1968 県大会ベスト8が最高 チームの軸となるべき選手が少なく、中盤を省略したいわゆる速攻にたよるゲームが多かった。縦パスのみの単純な攻撃では1回戦、
2回戦は、勝ちぬけても上のレベルでは通用しなかった。
部員も16名程度で毎日全員が練習に参加する事も少なかった。
天野、池田、伊藤
駒田、柴田、長沢
1969 サッカー部総勢17名 少ない人数だが春から、大会に向けて合宿や遠征などを精力的に
行い、チーム一丸となって戦った。ただ、バックスの要、田中の骨折などのアクシデントもあり新人戦のベスト4が最高だった。
この年の8月、体育館が全焼した。当時、珍しかったトランポリンや体育設備などみんな燃えてしまった。これまでのOBが集まり、四中工の
サッカー部OB会が結成された。最初の会合は城先生とOB13名だった
伊藤、川口、酒井