1970年代は四中工サッカー部にとって飛躍の時期になった。1960年代、少しづつ力をつけてきたとはいえ、三重県内でも”優勝”はまだなかった。しかし1971年初めて新人戦優勝してからというものはまさに「三重県立四日市中央工業高校」はインターハイや選手権などでも常連となり選手権準優勝をはじめ全国に名をとどろかせる事になった。この頃は、練習もハードになり試合数は練習試合をふくめ、年間130試合以上消化していた。

年度 主な出来事 内容 3年生
1970 白馬での夏合宿 昨年度のメンバーからは一人抜けただけでチームとして期待されたが県総体ではベスト8、新人戦はベスト4という成績だった。恒例となった夏合宿は初めて学校外で行われ、長野県白馬へ3泊4日で出発した。涼しい環境ではりきって練習に励み、地元高校などと練習試合も行いいい成績で合宿を終わる事が出来た。最終日には八方尾根にリフトでのぼり、夏山の爽快感を味わった。(リフトでよかったー) 大河内、小田
信沢、田中
田端、堀井
萩村、森島
1971 初の県大会
(新人戦)優勝
悲願の県大会優勝は新人戦で達成された。これまで大きな壁となっていた準決勝も尾鷲高を6−0の大差で破り、決勝戦は豪雨の中で行われた。相手は名張高で上野工を破っての決勝進出である。後半山田のドリブルに対する相手の反則で得たPKを山副がきめ、この一点を最後まで守りきった。この大会4試合での得点は16、失点は0という快進撃であった。この頃から四日市サッカー少年団出身者や中学校で三重県で優勝したことのある選手が部員の多くを占めるようになって藤枝遠征などで力と自信をつけていった。 新井、安藤
伊藤、喜田
清水、瀬川
森上、森口
1972 全国高校サッカー
選手権初出場
新人戦二連覇。インターハイ予選は決勝リーグで涙をのんだ。しかしこの敗戦により、チーム全体がより一層練習に励み選手権の代表権を勝ち取った。当時は三重、岐阜、愛知のうちで1校しか全国へのきっぷが与えられなかった。準決勝では岐阜工に3−1、決勝では刈谷高に4−1と圧勝し念願の代表権を勝ちとった。選手権での1回戦は
西奥羽代表の秋田商業だった。元日本代表GK田口を擁し、インターハイ準優勝の実力があった。前半から攻撃が冴えチャンスを掴むが田口のファインプレーで得点できない。後半にFKから相手に1点を奪われ涙をのんだ。決勝カードは浦和市立2−1藤枝東
石崎、井上
川瀬、兼浦
須藤、中村
伴、 下田
平田、山副
1973 新人戦
インターハイ予選
選手権予選
三冠達成
全国ベスト4
地元三重県で開催されたインターハイに2位の名張高と共に出場し
1回戦シードのあと2回戦沼田高に快勝したが、3回戦山城高に惜敗した。選手権では1,2回戦今大会より採用されたPK戦で辛くも勝ち3回戦では、去年負けた秋田商と対戦3−1と見事に雪辱した。
準決勝では藤枝東に怪我で主力を欠きながら堂々と戦い、前半は
0−0、後半に勝負をかけたが藤枝の中村一義に点を奪われ0−2で
破れた。しかし大会優秀選手に九鬼(3年)、山田(3年)が選ばれ
東南アジア遠征に参加した。この年の優勝は大阪の北陽高校で
初出場初優勝である。
伊藤、海山
川村、九鬼
鈴木、山田
1974 3年連続選手権出場 新人戦優勝し、春季大会も制し、いいスタートを切った四中工だが
インターハイ予選では思わぬ苦杯をなめた。3回戦の対名張高戦では、前半3分相手が放ったこの試合唯一のシュートがゴールネットを
ゆらし、予想しない敗戦を喫してしまう。この敗戦で、気持ちを引き締め選手権予選では、4試合で得点25、失点5の圧倒的な強さで三重県を勝ちぬき三岐決勝では大垣工業を5−1で一蹴し本大会へ出場し、シード高として2回戦から出場。帝京高と対戦したが1−1から
PK戦で涙をのんだ。優勝は帝京高校。優秀選手に内山が選ばれた
有竹、伊藤
内山、加藤
香山、川村
小林、高木
中条、四元
松岡、溝上
1975 4年連続選手権出場ならず 新人戦に敗れ、打倒上野工を目標に望んだ春季大会では準決勝まで危なげなく勝ち進み、決勝戦ではライバル上野工との対戦だった。
前半1年生ながらCFに起用された樋口(士)のヘディングシュートが
きまり、最後までこの1点を守り、優勝した。しかしその後のインターハイ予選では上野工にホームアンドアウェイで0−1、0−0のスコアで敗れた。最後の選手権予選では準決勝上野高に1−2でやぶれ、
夢を絶たれた。上野高は三岐も制し、選手権出場を果たした。
他にこの年のビックイベントとして三重国体があった。四中工からは城監督をはじめ3年生からは福田、紀藤、森、種瀬、2年生は杉本
1年生は樋口ら計6名が選ばれ春から三重県高校選抜チームとして強化合宿や遠征などに参加した。
紀藤、斎木
谷本、種瀬
豊田、福田
森、
1976 三岐大会、PK負け 去年インターハイ、選手権に出場できず、今年は雪辱の年となった。
というより、四中工はインターハイに出場しない年はその期間(真夏)恐怖の合宿がまっているので選手は何が何でもインターハイには出たいのである。(合宿をパスしたい)そんな思いで臨んだ県予選決勝
対上野工に3−1、1−1のスコアで念願の切符を手にした。インターハイは新潟で行われた。1回戦益田高に6−2で快勝したが2回戦に
優勝候補古河一高と対戦し2−3で惜敗した。選手権予選は三重県予選を圧倒的な強さで勝ち抜き、大垣工と三岐決勝を行った。攻める四中工、守る大垣工の図式でゲームは進んだが、結局堅い守りを
崩せず、PK戦に持ちこまれ、惜しくも無念の涙をのんだ。
赤井、尾崎
菊地、北村
小菅、杉本
下田、鞠本
中村、山中
1977 選手権準優勝 この年はインターハイにも出場し、1回戦3−2で東予工を破り、2回戦は優勝候補の浦和南高との対戦で3−2で接戦をものにした。
3回戦は山口高との対戦だったが0−1で惜敗した。この試合GKの
浜口は試合中、頭を打ち記憶を失っていたが誰にも気づかれずそのままプレーし、試合後買い物の途中で我に帰りチームメイトに試合結果を聞いていた。(彼はその後3回記憶喪失になっている)
選手権では予選3回戦から出場、4試合で29得点失点は0しかも
決勝戦で上野工を9−0で破り、圧倒的な強さを見せつけた。三岐大会も大垣工を3−0で破り、3年ぶり4度目の代表になった。
本大会でも好調ぶりは健在で4−0松本工、5−0韮崎高、3−0島原商、準決勝では大会3連覇を目指す浦和南高を樋口(現監督)が決勝点を上げで2−1で撃破し
初の決勝進出を決めた。決勝の相手は帝京高で前半1点先制されるがその後、反撃に転じたが後半再三のチャンスも得点できず逆に
ゴルゴ金子に芸術的なヘディングシュートを決められ、終わってみれば0−5の大差で完敗した。しかしイレブンには涙はなく、ここまでこれたという充実感があった。
赤井、磯部
伊藤、川村
小菅、樋口
松田、
中村(旧姓前野)
1978 三重県内5冠達成 新人戦をはじめ、三重県の5つのタイトルを初めて全てとり、今までのジンクスを打ち破った。インターハイでは6−0東海大二高、3−2旭高、2−0国泰寺高を破り準々決勝に進んだ。が、チームでは熊谷をはじめ、池田、石河など3年生が日射病などで倒れ、病人部屋までできる始末で次の北陽高戦では0−2と敗退。ベスト8で姿を消した。最後の選手権も出場が決まり、最後の調整の時、愛知県代表の愛知高校を迎え練習試合を行った。昨年度準優勝という事もあり、中京テレビも取材に訪れていた。結果は前半0−3、後半0−3の0−6で完敗した。3年生の中村、池田は出来が悪く前半で代えられ後半はグラウンドをずーっと走らされた。TV局もこの結果は困ったらしく夕方のニュースで少しだけ取り上げていた。さて、本選では1回戦相模工大付属を相手GKが血まみれになるくらい攻めまくり(吉川のスライディング)8−1で完勝、2回戦では前半3分に池田がコーナーキックのこぼれ球を蹴りこみ、先制した。が、この1点でチームは楽勝ペースにはまり、攻めまくられたが虎の子を守りきり、辛勝した。次の3回戦はインターハイ準優勝の八千代高校で、春のフェステェバルでは0−3で負けている。その時キャプテンの熊谷は”やちよ”と読めずやつしろとか言っている。その八千代高戦では一進一退の試合が続いたが、PKを決められ0−1で惜しくも涙を飲んだ。優勝は古河一高校で初優勝 池田、石河
加藤、熊谷
富永、中村
浜口、桧山
前多、松田
牧島(旧姓下村)
1979 三岐大会、PK負け このチームは一昨年の選手権準優勝チームにそっくりで地元や関係者は期待していた。ユース日本代表の候補にもなった樋口(靖)、吉川(ガッツ石松に似ていてガッツのニックネーム)を軸にウイングやサイドバックのオーバーラップなど多彩な攻撃ができた。しかしインターハイ予選では決勝戦上野高と対戦延長でも決着がつかず再試合となったが0−3で敗れ、インターハイへの切符はつかめなかった。東海総体では悔しさをばねに2−1岡崎城西、PK戦で清水商を破り、決勝戦では0−1で静岡学園に敗れたが初の準優勝に輝いた。選手権予選では決勝まで難なく勝ちあがったが決勝の上野工には延長までもつれこんだが2−1で辛くも逃げ切った。三岐大会では悪天候で泥沼の大垣南公園で吉城高と対戦した。泥沼のグラウンド状態のため、ボールをける事すらままならない状態で決定力を欠き、0−0でPK戦にもつれ込んだ。PK戦では2−4で敗れ、期待されたチームだったが選手権出場は、果たせなかった。 中村、吉川
樋口、堀内
根本、伊藤
中川、皆川
島田、駒田