1990年代四中工にはとって大きな出来事があった。1つは帝京と両校優勝ながら悲願の選手権優勝を果たしたこと。これまで何度も手が届くところまでいきながら果たせなかった四中工関係者全員の夢をキャプテンの中田、小倉、中西を中心とする(28、29、30期生)が果たしてくれた事。またこれにより新たに単独優勝が目標となったことである。そしてもうひとつ大きな出来事は創部以来、チームの監督として引っ張ってこられた城先生が1995年転任したため、監督が実に32年ぶりに交代した事。新しい監督は1977年選手権準優勝の時の主将で1991年より四中工の教諭となりコーチを務めていた樋口士郎だ。新しい夢を城監督から引き継いだ。

年度 主な出来事 内容 3年生
1990 三重県内5冠達成 今年は3年生山中を軸とした攻撃陣、主将の森を軸とした守備陣でどちらかというと守備中心のチームだった。その守備力で県内ではタイトルを総なめにした。しかし、インターハイ予選決勝では危なかった。上野工と対戦し、後半38分カウンターから失点し残り2分で1点リードされた。誰もがあきらめかけたロスタイム、PKのチャンスを得て、小倉がきっちり決め同点再試合にかろうじて持ちこんだ。再試合では2−0で下し、出場権を得た。そのインターハイでは1回戦5−0宇部高、2回戦0−0PK7−6習志野高と勝ちあがるが3回戦国見高に1−3で運動量の差を見せつけられ、課題を残しつつ終わった。
選手権では1回戦インターハイでPK勝ちした習志野高に1−5の大差で敗れ悔やみきれない敗退であった。
佐藤、山本
山中、井上
後藤、平田
森、稲沢
田崎、福森
永山
1991 選手権悲願の初優勝 主将の中田をはじめ、小倉、中西と昨年のメンバーが残り、サッカー部創立以来最強のチームとの呼び声が高かった。新人戦優勝を皮切りに中京テレビ杯優勝、インターハイ3位と好調のまま選手権予選へ。予選決勝では四日市工に0−0PK5−4で辛くも勝ち本選出場を果たす。その後、大学、社会人との練習試合も負けしらずで万全の体調で正月を迎える事となった。選手権では1回戦1−0韮崎高、2回戦7−0山形中央高、3回戦1−1PK5−4中京高、準々決勝武南高を前半28分中西のロングシュートで先制、後半28分、コーナーキックから同点に追いつかれるが、直後のキックオフから中田、島岡山岡へつなぎ決勝点をあげ、2−1で準決勝進出を果たした。準決勝はこれまで何度も大きな壁となった国見高との対戦であった。立ちあがりから国見はCF上村の頭に合わせそこから永井のドリブルでしかけてきた。それに対し四中工は小倉にボールを集め、全く互角の試合展開になり、0−0のままPK戦に突入した。PK戦は4−4から6人目中西が成功し、国見の6人目をGK水原が止め、決勝進出を果たした。決勝の相手は帝京高で前評判では四中工が高かったがこれまで帝京は決勝では負けた事が無いほど決勝戦には強かった。そのジンクス通り、前半はMF阿部、日比CF松波の個人技や、DFの体を張った守りのためペースが掴めず、0−1でハーフタイムを迎えた。後半小倉、中田を中心に島岡、森下らがボールに絡めるようになり18分、山岡が頭で押し込み同点、しかし28分松波にゴールを奪われたが37分、右コーナー付近からの中田のFKを小倉がダイビングヘッドであわせ、再び同点に追いつく。2−2で延長戦にはいり終始押しっぱなしだったが帝京の集中力もすばらしくついにタイムアップ。史上初の両校優勝ながら初優勝を飾った。その後、高校選抜に城監督、主将として小倉(3年)中田(3年)中西(3年)水原(2年)が選ばれベルンツォーナ国際ユース大会に出場、3位入賞。 伊藤、伊室
大田、中田
森下、小倉
島岡、中西
江川、岩間
川島
1992 選手権ベスト8
全日本ユース初出場
地獄の中田島砂丘合宿
全国優勝の翌年というプレッシャーの中で、苦しみながらも選手権では国立までもう一歩というところまで頑張った年であった。インターハイに関しては、1年生がレギュラーの大半を占めるという状況で、やはり経験不足から四日市工に不覚をとってしまう。その後インターハイ不出場恒例の、地獄の夏合宿が浜松の中田島砂丘で行われ、早朝、午前、午後、夜の4部練習で精神的にも肉体的にもたくましくなり、また、全日本ユースでの推薦出場で経験を積み、選手権へ向かっていく。そして準決勝では準優勝の山城高校にPK負けを喫したもののベスト8という成績を残したのである。
1993 全国では2回戦の壁 この年は県内では安定した力をみせたもののインターハイ、選手権とも2回戦敗退という結果に終わった。選手権2回戦では、浦和市駒場競技場で超満員の大観衆の中、対鹿児島実業という注目の対戦が行われ、城、平瀬、遠藤を擁する攻撃をくい止めることができず、0ー2と完敗したものの、2年生中心のチームとしては次年度につながる戦いであった。
1994 勝負の年に無念のPK戦
全国3回戦に泣く
1年生より活躍してきた選手が3年生となり、今年こそ国立へ!という期待の高い年度であったが、今一つ実力を発揮できず、不思議と全国ベスト16に終わってしまった年度である。特に選手権では、1回戦東亜学園を2ー0と下し、2回戦では強豪徳島市立に競り勝つものの、三回戦では連覇を狙う清商を破った奈良育英にPK負けを喫てしまう。育英には練習試合では完勝しており、また、優勝した市立船橋等とも互格に戦っていただけに本当に悔しい敗戦となった。(インターハイ、国体とも3回戦敗退)
1995 四中工激動の年!城先生の退任と 樋口新監督の誕生 四中工サッカー部史上最大の試練を迎えた年度であった。城先生の四日市工教頭へのご昇任、川村前部長の転勤、新監督樋口の半年間のブラジル研修という緊急事態を、樋口の同期にあたる伊藤直司監督代行と学校側の重鎮落合部長による2人3脚で乗り切り、また、部員総数170名という大所帯を城利英コーチ(現上野農業高校)と濱地コーチ(現木本高校)の奮闘によって支えていった。城先生の退任というチャンスにつけ込もうとする他チームに対し、インターハイ予選においては伊藤監督代行の手腕により県代表を勝ち取り、東海大会3位、インターハイ出場を果たす。しかし、樋口監督帰国後すぐに行われた選手県予選において、準決勝にて上野工業にまさかの敗戦を喫し、選手権の連続出場が10年で途切れてしまい、新生四中工としての苦難のスタートが切られたのである。
※樋口監督談「今自分が四中工監督として頑張れるのは、この年の皆さん の苦労のお陰だと感謝しています。いろんな意味で新生四中工のベースが確立されていった年度であります。」
1996 復活四中工への狼煙! 樋口新監督にとっての実質的な1年目であり、昨年の屈辱を果たすべく、真価の問われる年度となった。新チームより強化合宿及び関東遠征を積極的に行い、新人戦を苦戦しながらも制したことが自信となり、インターハイ予選においては2次リーグにおいて四日市工に足下をすくわれ、窮地に立ったものの県総体において見事優勝を飾り、東海大会においても強豪清商との決勝で、2ー2からの延長戦で惜敗するという実力をつけていった。そしてインターハイにおいて広島皆実にPK負けを喫した借りを全日本ユースで返し、東福岡に破れはしたもののベスト8となる。完全復活を果たすべく臨んだ選手予選は、危なげなく勝ち上がり、2年ぶりに東京へ乗りこん込んだ四中工であったが、久我山、松蔭と撃破したあと静学に敗れ去り、国立への課題を残した。
1997 選手権四工に不覚 復活を果たした新生四中工の飛躍が期待された年度であったが、昨年からの県内公式戦5大会連続優勝の後、1番重要な選手権を落としてしまい、またもや試練を迎えた。新人戦、県総体、東海大会と、順調にチームが出来上がってきたよう見えたがインターハイ1回戦において登別大谷にまさかのPK負けを喫し4年ぶりの地獄合宿が実施された。関ロッジの坂道、鈴鹿青少年公園、井坂ダムなどをただひたすら走り、夜は夜で体育館での筋トレが待っており、あの中田島砂丘に勝るとも劣らない強烈なものであった。この合宿などの強化を通して夏場を乗り切った選手は、精神的にたくましくなった反面、怪我が多くなり、レギュラーが安定しないまま選手権予選に突入していった。そして老将嶋津先生率いる四日市工にカウンター2発をくらい敗れ去ったのである。
1998 1・2年生主体で インターハイ出場 

 選手権ベスト16

OB阪倉氏(元ジェフ)アドバイザーとして活躍
この年度においては、樋口監督ブラジル研修時の、選手補強ができなかった年代ということで、3年生の優秀な選手が、暁・津工業・四郷・名張西あたりに集まり、3年計画の3年目というチームが、虎視眈々と県チャンピオンを狙うという情勢であった。案の定新人戦においてベスト8負けという最悪のスタートをきったが、新1年生の加入により戦力がアップし、中日本高校サッカースーパーリーグの誕生により経験を積み、春の遠征では強豪校と戦いながら実力をつけていった。そして県総体を制し東海総体では3位、インターハイでは強豪徳島市立にPK負けという結果を残しながら選手権予選に突入していきました。第一の山場は準決勝対津工業。先制し追いつかれ、終了間際のピンチをしのいで延長で決着をつけるというしびれるような試合で決勝進出を果たし、決勝では、三重県の中学優秀選手を大量補強して三年目を迎える暁を終了四分前の劇的なゴールで2ー1と下し、結局レギュラー11人中9人が1・2年生というチームで夏、冬とも県を制する事ができました。2年ぶりの選手権においては、1回戦は堅さがあったものの山形中央を2ー0と下し、2回戦の広島皆実をPK戦で乗り切り、そして迎えた宿敵帝京に対し、若いチームが臆することなく戦い、0ー2と破れはしたものの互角の内容で四中工の可能性を示した。
1999 選手権悪夢の1回戦敗退

B1選抜大会初優勝
レギュラーの9人が残り「今年こそ国立へ」の合い言葉でスタートした年度であったが、あらためて勝負の厳しさをあじあわされた1年であった。新人戦は風邪との戦いの中で主力を欠きながらも優勝する。しかし、かえってそれが油断を生み、県総体において、昨年より戦力ダウンしているはずの暁に準決勝で敗退し、インターハイのみならず東海総体への出場権をも失う。しかし、ここからメンタルトレーニングを導入したことによりチームが変わり始め、強豪の集まる韮崎フェスティバルや浜名湖カップで優勝し、また、3年生を中心とするB1チームが、夏の選抜大会において、県内各高校のAチームを撃破し、優勝したことがチーム全体のムードを盛り上げ、自信をつけて選手権予選を迎えました。準々の対名張西戦に苦戦したものの、決勝の暁戦では残り6分の同点シュートが決まるまでリードされていた苦しい戦いを延長で制し、2年連続で選手権出場を果たした。昨年の選手権経験者が多く、各方面からの下馬評も高く、しかも元日本代表の宮内氏をアドバイザーに迎え、国立が現実味を帯びてきた本大会であったが、1回戦にて伏兵丸岡高校に前半1分先制し押しながらも1ー2と敗退してしまい、あらためて1回戦の怖さを思い知らされた大会となってしまった。